「――――宜しかったのですか」 暗闇に浮かぶ、焚火を見つめながらラキストが静かに問う。 「何がだい」 「…アシルのあの様子。葉様は元より、様のことも、」 ラキストの言葉が止まった。 主の口許に、小さな笑みが浮かんだのを目にして。 パチン、と小枝が爆ぜる。 「……大丈夫さ。少しぐらいのオイタなら薬になるだろう、にとっても。…それに」 ラキストの首筋を、さっと冷たい手がなぞったような感覚が襲う。 もう傍に居て長いのに―――この垣間見える鋭さには、やはり慣れ切ることができない。 その唇は、微笑んでいるのに。 揺れる炎を見つめる双眸は、あまりにも冷たい。 あの、幼い精神故に主人に心酔している忠実な部下を、彼はそれでも―――いとも容易く切り捨てるのだ。 いつも。 いつだって。 何の躊躇もなく。 「彼女がどうにかなる前に――――僕が、彼を殺すさ」 □■□ それは、ひとつの道しるべだったのかもしれない。 少なくとも、僕はそこに、運命の岐路を見出したのだから。 ―――最初は気配だった。 物凄い速さで近付いてくる異様な気配に、ペンデュラムが反応したのだ。 いつもの如く衝突を始めた蓮とホロホロを怒鳴って制し、睨みつけた先で―――地鳴りと共に、突如地面が盛り上がった。 「僕はアシル。ハオ様の、一番の部下。お前たちと遊んでやりに来たのさ」 少年の、まだ幼さの抜けない高めの声が、尊大な色を伴って響き渡る。 聞き慣れた、そして決して無視できない名前と共に。 「ハオ…!?」 自分の声が自然と低くなるのがわかった。 その名を聞いた時、脳裏に甦るのは、父も母も、思い出も―――全てを焼き尽くした業火を背に、笑うハオの姿。 ―――憎しみが、胸の奥からじわじわと噴き出す。 アシルと名乗った少年は、やや粘着質な視線で葉を見下ろした。 「ハオ様が嘆いています。いつまでもぐずぐず弱いままだって」 「アイツにそんなこと言われてもな…」 葉が困惑気に呟くのが聞こえた。 敵の真意はわからない。 だが、いずれにせよ彼は主から命じられて、ここへ来たわけで。 そしてその主は――――リゼルグにとって全ての仇なのだ。 「葉くん…!」 そのとき、何故か葉だけが、ビッグガイ・ビルによるオーバーソウルに包囲され、皆から隔離されてしまった。 一瞬リゼルグは躊躇うが、どうやらビッグガイ・ビルには葉をすぐにどうにかしようとする意志はないらしい。 そして、立ちはだかるはもう一人の敵。こちらは明らかに攻撃態勢に入っている。 ならば。 このアシルから、倒すべきだ。 そう判断したリゼルグは、しかし。 やがて聞こえてきた台詞に、 「ハオ様の子孫に―――」 まるで時間が止まったような錯覚を覚えた。 「手出しは出来ませんから」 ぐわんぐわん、と頭の中で同じ言葉が反芻される。 まるで頭の中で巨大な鐘が鳴っているようだ。 『子孫』 そう聞こえた。 本当に―――彼は、アシルはそう言ったのだ。少しばかり不満そうに。 ハオの、子孫。 葉君が? …どういうこと? それは時間的にも肉体的にも、有り得ないこと。 だってハオは僕らと同じくらいの背格好で、両親が死んだ時も確かに彼は僕と同じ子供の姿だったのだ。 その彼の―――子孫? 訳が分からない。 意味が、分からない。 「葉君が――――ハオの、子孫…?」 半ば救いを求めるかのように、その言葉を向けられた本人へ目をやる。 この疑問が少しでもどうにかなるような気がしたから。 だけど。 「………どうりで似てると思った…」 ビッグガイ・ビルのスチールカーテンに囲まれた当の本人は、ぽつりと零すだけだった。 表情は余り変わらず、口調も相変わらず。 本人からしてみれば驚愕の末の台詞だったのかもしれないが、リゼルグの中での疑問は少しもなくならなかった。 「――――それに、」 そして、あの仇の手下はさらに吐き捨てたのだ。 それこそ、頭を鈍器で力いっぱい殴られるような、衝撃の言葉を。 「お前なんかがハオ様の妻だったなんて、僕は絶対認めない―――!!」 何を、 ………なにを、いって い る の ? それはつい先日のこと。 僕は、大好きな女の子から―――拒絶されてしまった。 生まれて初めてだった。あんなに誰かを大切に想うなんて。 だから僕と同じくらいの気持ちを、ほんとうは、彼女からも欲しかった。 だけど、ダメだった。 やっぱり彼女の中には――――どうしても忘れられない人が、いた。僕なんて、足元にも及ばないくらいの。 自分が性急過ぎたのだと思った。もっと着実に、ゆっくりと接していけば、或いは違う未来もあったかもしれないのに、と。 けれど それと同時に――― 彼女を、卑怯だと思った。 思ってしまった。 今なら、自分の醜さに吐き気がする。 それでもその時は、どうしようもなく、そう思ってしまった。まるで、拒絶された自分を守るように。 少しは僕の事も、考えてくれていると思っていたのに―――と。 だから、拒絶された時。 僕は何も言わずに、何も言えずに、ただ黙って彼女の前から消えた。 「わかった」も「ごめん」も何も口にしないまま。 だってそれが――――彼女を更に辛くするのだと、わかっていたから。 小さな復讐のつもりだった。 けれど一晩寝て、起きて、腹が減って朝食を食べて。 失恋したんだな、とおぼろげながらにようやく、自覚をして。 …そう、人として、生き物として生きていくための行動を続けるうちに、僕はようやくあの時のことを冷静に振り返られるようになったのだ。 そうして、 打ちひしがれている彼女を――――を、見た。 そこで、僕は僕のしたことも、自覚したのだ。 僕は、大切な人を、最後まで大切にできなかった。 ―――――……それでも、 (すきだった) (君のことが、やっぱりすきだった) (だから) …話そうと、思った。 今はまだ―――自分の中で完全に決着がついていないけれど、いつか。 口を開くときは、僕が先であろうと。 何を言うか決めていた訳じゃない。 でも何か、思わず引いてしまったあの境界線を、自分の足で飛び越えなければと、思っていたのだ。 彼女を見た時に走った、焦燥感とも罪悪感ともつかぬ何かは、胸を掻き毟りたくなるような気持ちにさせた。 もう二度と―――そんな思いはしたくないと。そんな人間にはなりたくないと。 そう、思ったのだ。 なのに 「―――――ち、がう…」 「お前みたいな弱い奴が、なんにも出来ないような奴が、どうしてハオ様の」 「ちがうッ!」 引き裂かれるようなの声が響く。 「ちがう、ちがうちがうちがう! わたし、あの人のこと好きなんかじゃない! 好きじゃない! 違う!」 「違うものか。ハオ様はいつだってお前のことばかり気にする。いつもいつも、お前のことばかり口にするんだ!」 「ちがう、ちがう…っ!」 が必死に首を横に振る。 必死。 そう、まさにその形容がぴたりとあてはまるぐらい、彼女は否定したのだ。 必死で何かを拒否している。 必死で何かを受け入れまいとしている。 それは、はたから見れば少々異常な程だった。 「…ち、がう…ッ…」 小さな身体から絞り出された声音は、最早涙声だった。 (僕、は) 何を信じればいいのか、わからなくなって。 後から考えれば、こういう時こそ敵に惑わされちゃいけないと、すぐに分かった筈なのに。 なのに ―――それぐらい、あのアシルという少年が吐いた言葉が、衝撃的で。 その時は何も考えていなかった。 条件反射のようなものだと、思っていた。 特に何の意味もなかったのだ。 ――――――――でも それは偶然。 運命が仕掛けた―――ほんの一瞬の、いたずら。 を見た。 すると彼女の方も、ふいにリゼルグの方を見たのだ。 目があった。 ―――途端、 「……っ…」 彼女の瞳が、大きく見開かれて。 リゼルグは自分が今どんな顔で、どんな心情で彼女を見ていたのかを、ようやく思い知ったのだ。 何も考えていなかった。そう、思っていた。けれど。 自分の、動揺の奥に隠された、自分でも気付けないほどの小さな小さな、小指の爪程もないような疑惑の念を―――――彼女は、気付いたのだ。 それは彼女への疑惑。自身への―――不信。 リゼルグがそれを理解した頃には、もう全てが遅かった。 の眼は、呆然と宙を見つめている。 それが、彼女の受けた衝撃の酷さを物語っていた。 その、最早生気の抜け落ちたような彼女を、 アシルのオーバーソウル・雲外鏡が、地面からもぎ取るように捕まえた。 「!」 蓮の叫ぶ声が聞こえた。 辺りに緊張が走る。 けれどもリゼルグは――――動けなかった。 「まったく……ハオ様も、こんな小娘のどこが良いのやら」 「てめえ! ちゃんを放しやがれ!」 「うるさい」 飛びかかった竜を、蚊でも追い払うかのように、雲外鏡がもう片方の腕で薙ぎ払った。 その肩に乗っていたアシルは、つかつかと持ち霊の腕を伝い、握りしめられているの元へ歩み寄る。 「ッ、わ、たし……あの人の、……妻、じゃ」 「………まだ言うのか」 「…っ、う、あ」 の首筋をアシルが乱暴に掴む。 くぐもった悲鳴がその口から洩れた。 「お前の、そういうところが気に食わないんだ。ハオ様のことを何も知らないくせに、弱くて何もできないくせに、そうやって拒むくせに――――なのにハオ様はお前を求めている! 何で、何でだよ! あの方には僕さえ居ればそれで十分なのにそれなのに!」 ぎり、と。 その手に更に力が入るのが、わかった。 の顔がますます苦しげに歪む。 それを止めたのは――――意外にも、共に来ていたビッグガイ・ビルだった。 「それぐらいでやめておけ」 「………」 「アシル」 「――――――ふん」 アシルがパッと手を放す。 途端にが激しく咳き込んだ。首元が赤い。 「!」 ホロホロの声。 「まったく、さっきからやかましい…ホラ、返してやるよ」 そう吐き捨てると、アシルの声に呼応するかのように雲外鏡が腕を振りかぶり―――彼女の身体を無造作に放り投げた。葉のいる、ビッグガイ・ビルのスチールカーテンへ向かって。 「なっ」 慌てて葉が地を蹴り、の身体を全身で抱きとめる。 その負荷に葉の顔が微かに歪んだが、何とか踏ん張ったようだ。 葉の腕の中で、彼女は最早ぐったりと動かなかった。 「そこなら大事なお姫様も傷つかない。そうでしょう?」 アシルの嫌な笑いを、葉がぐっと睨みつけた。 「…本当なら、最初から様もこの中に入れたかったんだがな」 「ウルサイぞ木偶の坊。お前はせいぜい、ご自慢の鉄壁とやらを葉様に破られないよう、気を付けるんだな」 ぼそりと漏れたビッグガイ・ビルの呟きに、アシルはそう冷たく言い放つと、再び残忍な笑みを浮かべ蓮たちに向き直った。 「さあ、一人残らず、殺してやるよ」 そこから先は――――正直言って、余り細かく覚えていない。 あまりにも多くのことがありすぎた。 そう、あまりにも…色々なことが。 葉くんのこと。 のこと。 …への、気持ち。 ハオのこと。 そして――――X-LAWS。 10の法と名乗る彼らは、突然僕らの目の前に現れた。 アシルをあっさりと倒して。 彼らは確かに断言した。ハオは、悪だと。僕の仇は、倒されるべき悪なのだと。 ……気が、滅入りそうになる。 さまざまな思いが、情景が、僕の内側で入り乱れている。 彼女と目があった瞬間。 僕は確かに、何かを失ってしまったのだ。 ―――永遠に。 取り戻すことなど、もうきっと、不可能で。 どうしたらいいのかわからなくて。 あの場で、葉くんとのことを耳にして、動揺して 自分自身すらも見失ってしまいそうで そこへ、あのアシルをいとも容易く貫いた、天からの裁き。 『悪は須らく、聖なる光の前に消滅する』 彼らは言った。 ハオは、悪の元凶。 ハオは、絶対的な悪。 この感情の洪水の中で、それだけが、彼らの姿だけが、まるであのアシルを貫いた光の筋のように、はっきりと脳裏に刻み込まれていた。 ガタゴトと揺れるバスの車内は、重苦しい雰囲気に包まれていた。 たぶん、皆思い描いていることは同じだろう。 一枚の真っ白な羽根。 圧倒的な力。 穢れのない、純白の影。 「X-LAWS…」 それは、ひとつの道しるべだったのかもしれない。 窓の外では、一日の終焉を告げる橙色の光がゆっくりと闇に呑まれていく。 誰も何も言わない。 アシルの言葉と、相反するような神々しい天使の姿。 それらはひっそりと、しかし確実に――――全員の中に波紋を落としていた。 |